鳴雪自叙伝 内藤鳴雪。 松山藩の幕末と明治
江戸時代末、四国の松山藩の名家に生まれ、父親が藩の要職にあったために江戸住まいも長く、幕末にもなると時代の要請で京都の地にもおよび、地方藩から見た維新の波乱の歴史をも社会風俗を交えて、地に足の着いた視野で淡々と描いた自伝。
特筆すべきは、この日本語の読み易さ。
明治末に口述筆記したものを加筆して連載したもので、まるで知っている老人が今語っているように判りやすくて面白い。
当時活字にされる日本語は、まだまだ漢文臭さがどうしても忍び込んで、今の読者は辟易することが多いのだが、口述といえども其の風はまるで無く、著者は松山藩でも漢学に優れて著名だったにも拘わらず、である。
漱石鴎外の文の方がまだ漢文くさいと言える。
松山と江戸の度重なる旅行の記録は興味深い。
第二次長州征伐では松山藩は大島出兵で島を占領するも、その後すぐ長州藩の奇兵隊に撃退される。
鳥羽伏見の後、松山藩には朝廷から討伐命令が下る。抗戦か降伏かでもめる中に土佐の仲裁が入る。
土佐家老から『今の薩摩長州の横暴には目に余るものがある、近い将来土佐を中心に決起することもあろうから、ここは力を残して降伏するのが良いのではないか』
と、いかにもありそうな話である。
また、廃藩置県では全国の藩主が東京行きを命ぜられ、替わって国から知事が任命されることになった。
藩主は公家達と同じく華族となって東京へ移住することになった。
長年親しんできた藩主が出て行ってしまう事になり、松山藩では民衆の不満が渦狭き、数々の説得も空しく、そのうち租税事務所が焼討され、ついには竹槍筵旗を挙げて一揆が藩庁を取り巻いて押し寄せそうになる。
明治期には教育行政に尽力し、老年に著者は東京に学ぶ松山の子弟寮の責任者となる。
その寮に入って来た20歳以上年下の正岡子規と出会い、その後に俳諧の運動に共鳴して、20歳以上年下にも拘わらず子規に弟子入りすることになる。
その後更に年が経ち、寮の責任者を後任に引き継ぐのだが、その後任が坂の上の雲の秋山好古である。
なによりも、読み易さ、解りやすさ。
著者は余り価値観を交えずに淡々と目の前の出来事を綴っていく。
今日的には批判されるような事象も多いかもしれないが、今批判的に読むのではなく著者の事実を見る混じりっ気のない眼差しにこそ注目すべきだろう。
これは、もう一つの明治維新の歴史でもあるのだが、単なる一庶民一女性とかの単一視野でなく、現実に徳川方松山藩の中枢にいた人間のものだから、どういうのだろう、背景としての躍動的な広範な歴史が語られていてじつに興味深かったです。
私は古本屋でたまたま買った岩波文庫で読みましたが、調べてみると青空文庫でもアップされています。
岩波文庫でも、しっかりとした解説と各章に小見出しも付いて、買っても損はないとおもいます。
岩波でも青空kindleでも、いずれにせよ是非ご一読を。